土曜日(2017/06/17)はせっせと自宅でお料理教室(笑)。
レシピは「きょうの料理」の荻野恭子先生。もとはどこか外国の家庭料理だという。レシピにあったようなお米は入れず、牛豚合い挽きだけで作ったが、ボリューム感は十分。メインディッシュ感が存分にある。
パクチーはまだスーパーでは高価。袋に入った全量を使ったが、火を入れているためだろうか、ツンとするような濃厚な香りは立っていながい、そこはかとない風味はあった。
他にもせっせと「新しょうがの甘酢漬け」とかを作りました。
土曜日(2017/06/17)はせっせと自宅でお料理教室(笑)。
レシピは「きょうの料理」の荻野恭子先生。もとはどこか外国の家庭料理だという。レシピにあったようなお米は入れず、牛豚合い挽きだけで作ったが、ボリューム感は十分。メインディッシュ感が存分にある。
パクチーはまだスーパーでは高価。袋に入った全量を使ったが、火を入れているためだろうか、ツンとするような濃厚な香りは立っていながい、そこはかとない風味はあった。
他にもせっせと「新しょうがの甘酢漬け」とかを作りました。
青梅線沿線での取材の帰り、阿佐ヶ谷で下車。ゲリラ豪雨が落ち着くのを待って、スターロードの「ろまんしゃ」へ。
店には告げていなかったけれど、きょうは絶対に行くと心に決めていたのだ。
開店後1年半経ち、いろいろな試行錯誤を経て、ようやく店も「らしさ」が身についた感があると、伊作とママ。「ろまんしゃ通信」というフリーペーパーを始めたという。いかにも彼ららしい。創刊号と、店のプリンタを使い目の前で刷り上がったばかりの第2号をいただいた。
店内のレイアウトも最初の頃とはずいぶん変わった。伊作の愛読書を店内に持ち込んだブックシェルフがなかなかに壮観。自由に読めるようだが、ただ、夜のバーでひとり本を読む客ってどのぐらいいるんだろう。
そぼふる雨の夜の「中央線文化バー」。10時近くまで客は俺ひとりだったが、そういう日もあるという。でも常連さんもかなりついてきたようだ。けっこう飲み、気づいたら11時半。東京行きの中央線快速は終わっていた。各停で水道橋から帰宅。
土曜日の夕飯。レシピはNHK「きょうの料理」6月号を参照。
鶏むね肉はナンプラーをまぶし、それを水(少々の塩と胡椒をまぜる)、パクチーの根、しょうが薄切りと共に米の上に載せて炊く。炊きあがったらいったん鶏をはずし、ご飯をお皿によそってから、再度上に載せ、一人前あたりひと束のパクチーの茎と葉を切ったものをちらし、特製ソース(笑)をかけていただく。
鶏むね肉が少々固くなってしまったが、まずまず。パクチーの香りがたまらない。タイでは「カオマンガイ」というらしいがそのモドキ。
インディカ米でつくったらもっと本格的になるだろう。次はこんなレシピ 「タイのチキンライス カオマンガイ」で再挑戦してみたい。
第一話 幸福のコロッケ 6/17(土)よる10:00
これはちょっと面白そう。
ヤング宮沢賢治、その知られざる日々を鈴木亮平が熱演。賢治の愛した食や音楽とともに贈る涙必至の感動作。魚乃目三太による、宮沢賢治の青春時代を描いた人気漫画をドラマ化。孤高の存在と語られがちな賢治だが、実はそんなイメージとは裏腹にユーモアあふれる天真らんまんな性格だったという。本作では、賢治が愛した食べ物やクラシック音楽を介して、家族や親しい人たちと関わった若かりし日々を見つめていく。中でも詩編「永訣の朝」にも綴られた、若くして死別した最愛の妹トシとの兄弟愛は、見る者の心に深い感慨を呼び起こすことだろう。
例によって映画の解説文はWoWoWサイトからの全面的なパクリです。すいません。
写真は『アナーキスト 愛と革命の時代』のポスターから
6/2(金)午前6:00
「グラディエーター」「レ・ミゼラブル」の人気俳優R・クロウが主演も兼ねて待望の初監督に挑み、2014年度のオーストラリア・アカデミー作品賞などに輝いた感動大作。
ニュージーランドに生まれ、幼少時からオーストラリアで育ったクロウが、両国も参加した第1次世界大戦中のトルコ・ガリポリの戦いと、その戦争の傷痕を描いた本作の脚本に巡り合って、自分にはこの物語を伝える義務があると、念願の初監督に挑むことを決意。戦争によって引き裂かれた親子の気になる再会劇の行方を、恋愛や冒険劇の要素も交えながら雄大なスケールで波瀾万丈に描き、見応えのある感動作に仕立て上げた。共演は、「007/慰めの報酬」のO・キュリレンコと「ディスクローザー」のJ・コートニー。
6/4(日)よる9:00
6/8(木)よる9:00
菅田将暉と池松壮亮がW主演した異色青春コメディ。河原にある階段に座ってしゃべっているだけの2人の高校生に、周辺の人々が微妙に絡んで独特の世界が構築されていく。
此元和津也の人気漫画を「さよなら渓谷」や「まほろ駅前」シリーズの大森立嗣監督が実写映画化。菅田演じる元サッカー部でお調子者の瀬戸と、池松演じるクールな優等生の内海が、場所は同じでも時間が異なるシチュエーションでただ何げなくしゃべっているというのが基本設定で、短い各エピソードの中で周りにいる人たちが絡むだけの展開だが、2人の絶妙な間合いで繰り広げられる会話にくすくすと笑わされる。主役の2人以外も、マドンナ的役割の中条あやみほか、くせ者役者たちの好リリーフぶりも楽しい。
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ICQでいわしが丸のまま、2尾200円と安かった(?)ので、さばくのはちと面倒だが、これをカルパッチョ風にしてみようと思った。新たまねぎ、セロリ、キュウリ、ミニトマトらと一緒にオリーブオイルや酢で和えた。一昨日のカツオの刺身はもう賞味期限限界。塩胡椒してフライパンでソテーして京水菜と一緒に。あとは、残り物の肉じゃが、油揚と水菜の味噌汁。
友人に勧められて2回目を視聴、1回目はNHKオンデマンドでチェック。
時代劇はあまり好まないのだが、ま、食い物の話だし、黒木華のNHKドラマ初主演だし、ワキの役者たちも新鮮味はないが手堅いし、なにより本編のあとに付録として、黒木華が江戸の女料理人の衣裳のままモダンなキッチンに立って、「はてなの飯」こと「カツオの時雨煮茶漬け」なんぞを披露するところが、いとをかし。
黒木のやわらかい関西弁と仕草で、こちらもつい食指が動いちゃうんだよな。料理ドラマの新趣向かもしれない。
高田郁の原作小説にも、著者が自ら時代考証を重ねた料理のレシピがついているという。ドラマ版も、高田氏のレシピなんだろうか。料理監修にあたるのは、「きょうの料理」など料理番組でおなじみの料理研究家・柳原尚之氏である。
秋篠宮家の長女が大学同窓のイケメン君と婚約かというので、きょうは朝からテレビのニュースやワイドショーが狂ったようにうるさい。
勤務先の弁護士事務所の入るビルの前で取材に応じた婚約(予定)者は、ほとんどの質問に、「時期が参りましたら改めてお話をさせていただきたく存じます」などと、バカ丁寧ではあるが、人を食ったような答えに終始。宮内庁筋からの口止めもあったのだろうが、それにしても、こんなことしか話せないのだったら、なんでこの時期に取材に応じたのか。
勤務先を察知したメディア(スクラム)がビルの中にまで入り込んできたので、やむをえない対応だったのかもしれないが…。
記者たちはかろうじて、きょうの早朝、長女と婚約者が電話で話をしたことまでは聞き出したが、どちらから電話をかけたのかと聞かれて、婚約者は「それは覚えていないんです」。はあ? 今朝のことだよ。
7〜8分ほどの、その愚にもつかない立ち話のシーンを、NHKの10時のニュースはご丁寧に2度も繰り返した。都合15分もあれば、もっと大事なニュースを報じることができただろうに。
人の結婚だというのにデレデレとにやけながら無駄話を続ける、地上波民放ワイドショーの時間と金の浪費は、あらためて言うまでもない。
こういう馬鹿馬鹿しさは、せめてきょう一日に止めておいてほしいものだ。
3月に台湾の台北・台中を旅したことは書いてなかったかな。写真を整理していたら、こんな美味しい写真が出てきた。
「無為草堂 」という台中の茶藝館にて。建物の雰囲気もいいし、日本語を勉強しているという女子大生が、台湾茶をきちんと目の前で立ててくれるし、なにより栄養バランスを考えた薬膳風の料理が美味しい。これは「鶏鍋御膳」(みたいな名前)。
日本人観光客もけっこう訪れるみたい。「TAIPEI NAVI」で詳しく紹介されている。
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というわけで、いしり醤油やはちめなど、お土産で買った能登の産品をふんだんに使った満足のいくブランチになった。デザートの「塩きんつば」もあるでよ。
ちなみに今日のお揚げは、IQCで購入の京都の「久在屋」のもの。味噌も長野県茅野市の山高味噌の「無添加 八ヶ岳醸造蔵」というものに変えた。少し甘口の味噌である。お揚げを変えるだけでも味噌汁の味わいは格段によくなるから不思議なものである。
能登半島のつけねにあたる石川県七尾市に出張があった。無理すれば東京に帰れなくはない時間だったが、金沢まで特急で出て、そこから北陸新幹線だと5時間近くかかる。泊まったほうが身体が楽だ。金沢泊という手もあったが、金沢は先月、これも出張で行ったばかりなので、今回は七尾に泊まることにした。翌日は土曜日だし……。
初めての町である。七尾については、近年人気の近世の画家・長谷川等伯の生誕の地、コンピュータ・ディスプレイ製造の「ナナオ」(現・EIZO)の創業地、能登島を抱く七尾湾にはいい魚と海老が上がり、近世には北前貿易で栄えた──というぐらいの雑駁な知識しかなかったのだけれど、いやあ、これはこれは……。
ここには私の琴線に触れる、いい街並みがあり、すてきな人々がいた。
JR西日本の七尾駅に降り立つと、輪島塗(風の?)駅名標が華やかだ。加賀友禅と思われる美しい暖簾もかかっている。これが後で述べる「花嫁のれん」だった。
駅前は無愛想で、けっして風情があるとはいえない。ところが、そこから10分ほど歩いたところにある、「一本杉通り」が素晴らしかった。
かつては奥能登へと向かう街道で、そこにあった杉の大木は人々に「出会いの一本杉」と呼ばれ、 目印として親しまれていたという。
この通りには、登録有形文化財に指定されるような、江戸期の雰囲気を残した明治から昭和初期にかけての腕木構造や土蔵造の古い商家がいくつも残る。古い商店のいわゆる看板建築も面白い。こういうものは意識して残さない限り、けっして残らないものである。
詳しくは知らないが、地元の人々が歴史を踏まえた新しい街づくりに取り組んだ成果でもあるようだ。
一本杉通りで最も美しい商店建築といえば、この「しら井」ではなかろうか。創業80年。北前貿易に淵源をもつ、昆布、わかめなどの海産物加工品を製造販売する。金沢市にも店を出している。いくつかお土産を買った。
▲「北島屋茶店」は、明治38年の大火を逃れた数少ない建築物。もとは廻船問屋の別宅だったという。
一本杉通りから少し離れたところに「天平(てんぺい)」という銘柄の造り酒屋があった。
「かつては市内に十数軒、造り酒屋があったけれど、いま残るのはウチだけ」とおかみさんが話してくれた。三年もの、五年ものの古酒の利き酒をさせてもらい、お土産に三年ものを買った。
この「布施酒造」の土間にも、「花嫁のれん」が飾ってある。
「花嫁のれん」とは、石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾またはそののれんを尊び用いる風習を言う。
幕末から明治時代にかけて、加賀藩の領地である加賀・能登・越中の地域で行われた。平成時代に入っては石川県能登地方の観光資源としても扱われており、地域で受け継がれた花嫁のれんの展示会やこれを使用した花嫁道中などの観光イベントが行われ、「花嫁のれん」の語は七尾市の一本杉通り振興会によって商標登録されている。
花嫁のれんの色や柄には時代ごとに流行り廃りがあり、麻や綿のものも見られるが、多くは絹で加賀友禅の手法が用いられ、これもこの伝統技術が継承された一因といわれる。一本杉を中心にゴールデンウィークをはさんで二週間ほど、百数十枚の花嫁のれんが飾られ、花嫁道中も行われる。全国でもここにしかないイベントとして、観光客の評判も高い。
花嫁のれん展公式サイト《花嫁のれんとは?》|一本杉通りで開催されるイベント情報&花嫁のれんギャラリー(石川県七尾市)
というわけである。
私には加賀友禅の良さを語るほどの知識も美的センスもないが、婚礼儀式に一度使われたあとは箪笥にしまわれてしまう暖簾を、こうして年に一度、商店ディスプレイの一環として、あるいは観光客呼び込みの目玉に使うというのは、いいアイデアだと思う。
「御菓子処 花月」という店で抹茶と和菓子をいただいていたら、おかみさんが待ってましたとばかりに、「花嫁のれん」イベントの来歴や店の歴史を語り始める。その話は、全国菓子博覧会から、世界的に有名になった地元出身のパティシエ・辻口博啓氏の裏話まで、何十分も、尽きることがない。
それもそのはずで、一本杉通りにはいくつか「語り部」がいる店があって、観光客に向けて茶菓をふるまいながら、街の歴史を語る試みが行われているのだという。まあ、話し好きでないと務まらない職務ではあるけれど。
「花月」のおかさみさんの話によれば、七尾の「花嫁のれん」を世に広めるのに一役買ったのが、作家の森まゆみさん。地元の人には当たり前の古くからの習慣に、他所の町にはない得がたい魅力を見出した。「谷根千」のまちづくりで培った独特の視点とノウハウが背景にはあったのだろう。彼女は町の人々と協力し、『出会いの一本杉』という聞き書きをまとめた。格好の七尾のガイドブックにもなっているという。
ただ、語り部たちの聞き書きのことを知ったのは帰京してから。ぜひ読んでみたいが、東京の能登観光案内所のようなところで手に入るだろうか。
一本杉通りでは古い商家が古い商売をそのまま続けているだけではない。古い町屋の構造を活かしながら、ディスプレイを変えたり、内部をリノベートして新しい商売を始めたりした店もいくつかあった。伝統を新しいものとして見せる工夫が凝らされている。
左の写真は、いまも土壁の糀室や杉桶のもろみ蔵などをもつ「鳥居醤油店」に並ぶ醬油差し。
醬油よりもむしろこの器が欲しいなと思ったが、「ごめんなさい。私の個人的なコレクションなので、売り物ではないんですよ」とおかみ。
「歩らり」という店では古い豆皿を2枚ほど買った。もともとは万年筆店だった建物で、2階の窓の意匠がペン先を模している。リノベ後は暮らしの雑貨店と銘打って、新旧の陶器やガラスの器や生活雑器、ケーキなどが、量もほどほどにセンスよく並べられている。奥座敷はお洒落なカフェになっていて、大人の女性とどこかの子供が話をしている。
「そう、パリがいいの? あなた、フランス語も話すのね」──話し手たちの顔は見えないが、そんな会話の断片が聞き取れる。
Humbert Humbert の「おなじ話」という曲がよく似合うような店だ。東京に戻ってきて調べたら、Facebook でさり気なく店の日常を発信している。
七尾は、今は製造元は一軒のみらしいが、「和ろうそく」の産地としても知られている(いた)らしい。
和ろうそくの原料はハゼノキ。その果実から木蠟を採取する。しかし、ハゼノキは能登では取れない。四国の原料をここに運んだのも北前船。能登の湿気がろうそくの生産に向いていたし、なにより七尾は浄土真宗を主体とする寺町なので、需要も多かったのだと、店の若い女性が話してくれた。
その「高澤ろうそく店」の中庭。雨露を湛えた緑の向こう、奥座敷の入口に花嫁のれんが飾ってある。壮大な山車が繰り出す「青柏祭」の賑わいも消え、静けさが戻ってきた七尾の街の、一幅の絵のような瞬間。
小雨けぶるなか、一本杉通りをいきつもどりつずいぶん歩いたら、腹がへってきた。昼食は、街並みを堀のようにつないで七尾湾に注ぐ御祓川(みそぎがわ)沿いにある「まいもん処 いしり亭」というところでいただくことにした。能登地方ならではの魚醤油「いしり」料理の専門店。庭にしつらえた釜戸で炊く能登米のご飯以外は、すべて「いしり」で味付けしているという。マイルドな塩加減と香味豊かなおばんざい風のランチだ。
この店の人も、たんに料理を提供するだけでなく、問えば「いしり」と、能登の食文化のことを語ってくれる。
七尾市は人口約5万5000人。高齢化と若者の流出はここでも顕著ではある。しかしそれを座視するのではなく、地域資源を発掘し、再構築し、魅力的に発信することに力を注ぐ人々がいる。
その静かだけれども強い意志と、知的なふるまいは──もちろん前夜のお寿司もうまかったのだが、私にとって最高のご馳走だった。
金沢のような大きな町に宿をとらなくて、大正解だったの巻である。
仕事柄ということもあって、まあ、新聞は読むほうだ。しかし紙の新聞はすっかり止めてしまった。読んでも読まなくても、部屋にたまって資源ゴミになるのが面倒なのだ。ただ、いくつかの新聞はネットで有料購読している。
で、毎日新聞もデジタル会員なのだが、きょうあらためて会員特典として『サンデー毎日』がビューアーでまるごと読めることに気づいた。今頃気づくなんてマヌケ。
『サンデー毎日』なんて、最近、床屋か歯医者かでしか目にしないな。青木理、保阪正康が連載しているのか。おお、平井玄の「東京階級地図」はなかなか面白いぞ。
で、読み進むうちに、阿木燿子の連載対談のページに行き着いたのだが、ここで不思議な光景に出くわした。今週号(5月9日号)の対談相手は「横山裕」という関ジャニ∞の子なんだが、肝心のその子の写真が誌面にないのである。ちなみに私は「横山裕」なる人の顔を知らないんだけれど(笑)。
誌面の一部を画像で紹介すると、こんな感じだ。
左のすっぽり白くなっているところが、本来の写真位置だ。阿木さんはまるで、塗り壁と対談しているようなことになってしまっている。
さらにページをくっていくと、「岡田准一」のインタビューもあるのだが、これも彼の写真がすっぽり抜けて、影になっている。あらためて今週号の表紙をみると、あ、そうか、最初は何か新手のデザインかと思っていたのだが、影武者は本来は(紙版では)岡田准一なのだな。
うーん、これが噂の「ジャニーズの肖像権タブー」ってやつなのか。タレントの肖像権を厳密に解釈して、紙媒体なら写真OKだが、ネットには使うななどと縛りをかける。ファンクラブの子が、「今週号の○○はキムタクが表紙です」とSNSに画像をツイートするのも禁じられているという。
新聞や雑誌の広告が、デジタル版だと抜けているというのはよくあって、これはむしろメディア側が代理店との間で結ぶ広告掲載条件ゆえの規制だと思うのだが、有名タレントの顔がネットで消滅するのは別の理由からなのだ。
このタブーについてはこちらのブログで面白可笑しく紹介されている。
日刊サイゾーのこの記事を読むと、なるほど向こうの論理はこうなっているのか、ということがわかる。
たしかにジャニーズ事務所の弁護士さんの話も、わからないではない。
ネットの場合は、写真のコピーが技術的に容易で、タレントの権利保護が十分に図れないというケースが多いからです。本当に報道目的だけで使われ続ければいいのですが、実際には第三者の手によってコピーが拡散して、タレントが管理できない形で肖像が使用される可能性が低くない。そのためには、入り口で、ある程度コントロールをしなければ、自分たちの権利は守れません。ですから、同じスポーツ紙であっても、紙面とウェブサイトでは別の媒体として考え、許諾・非許諾を媒体ごとに行っています。
私なりに上記のコメントを解釈すれば、こういうことになるんだと思う。
「タレント」とはいうが、芸能事務所にとっては「商品」である。その商品は、メディアに露出・流通することを通して初めて価値をもつ。したがって、供給者の適切なコントロールの下にメディアに多数露出させることが、この商品のマーケティングにおける最大の獲得目標になる。
しかしながら一方で、その画像が管理されないまま、むやみやたらにネットに流出しては、その価値は希薄化しかねない。ときにはブランド価値が毀損することもある。適切にコントロールされた状態で、しかも「ここでしか見られない」という稀少性をつねに演出することで、この商品は初めて成り立つ。
しかし商品は作り手の思いや都合だけで成立するものではない。消費者が受容し、消費し、再生産を希望するというデマンドサイドの都合があって、初めて商品は商品たりうる。それについての配慮というか考察は、上記のコメントからは感じられない。
そのサプライサイドの論理はたしかに法律論的には正しくても、文化的論にはどこか寒々とした印象を受けるのである。
それにしても、他の芸能事務所でメディアに対してこんな規制をかけているところって、あるんだろうか。旬のタレントの顔写真やグラビアは雑誌の花でもあるわけで、ネットで雑誌を読む時代に、そこだけ“スミヌリ”を指示する態度って、なんだかな〜と思う。
ちなみに、「サンデー毎日」サイトのバックナンバー紹介コーナーは、こんなヘンテコなことになっちまっている。どの号の表紙がジャニ系か、一目瞭然。スクリーンの向こうの影をみてその人を当てる、というクイズ番組が昔あったよな。
ジャニ系タレントが表紙を飾る確率が高い、産経新聞系のエンタメ雑誌のバックナンバー紹介はもっと悲惨だ。
むろんジャニ系マーケットが巨大だからこそ、この手の雑誌が跋扈するわけで、メディアと芸能事務所のビジネス利権をめぐる条件闘争、そしてその闘いでメディア側が圧倒的に負けているという戦況が、かような事態をもたらしていることは言うまでもない。
しかしなあ、俺だって毎日新聞の購読料をちゃんと払って、デジタル版「サンデー毎日」を読んでいるのに、事務所の「許諾」が得られないばかりに、旬のタレントのご尊顔が拝めない。そういう一読者の不利益のことは、芸能産業やメディア産業はどう考えているのだろうか(別に岡田某や横山某の顔を拝みたいわけじゃないんだけれどね)。
いずれにしても、メディアが巨大で寡占的な供給源に依存しすぎると、読者の楽しみは一定失われてしまうという、パラドクスというか、当然の帰結がここに成立してしまっているわけである。
ま、当ブログは、あんまり肖像権意識しないでやってます。でもけっこうヘタレなんで、どこからかクレームついたら、すぐ止めますけど。
某居酒屋の突き出し、というか、遅くまでぐだぐだ吞んでたので、店主がサービスでだしてくれたおつまみ。左はイワシのなめろう、右はなんだったっけ?
真ん中は玉川堂(新潟・燕市)の鎚起銅器の猪口に入った、土佐・司牡丹のぬる燗。ちなみにこの猪口は長い間、店に預かってもらっているマイ猪口である。ぬる燗のときは決まってこれで出してもらうことにしている。熱伝導性が高いので熱燗だとアチアチになるけど、ぬる燗だとちょうどいい案配に熱をキープしてくれるのだ。
で、話の本題は「おてしょ」。左の白い平皿。こういう形状のものをそう呼ぶことを、知らなかったんだよね。
大辞林 第三版の解説によれば、
てしおざら【手塩皿】
ということ。
「てしおざら」→「てしょ」と略して→「おてしょ」と丁寧になったわけだ。
断じて「おねしょ」ではない。
NHK朝ドラ「ひよっこ」の「兼平豊子」役の藤野涼子について、先にこういう感想を述べた。
映画『ソロモンの偽証』のあの中学生ではないか。映画初出演なのに圧倒的な演技力で度肝を抜かれた。しばらく学業に専念かと思ったが、あれだけの逸材だ。引く手あまただったのだろう。
というわけで、後れ馳せながら、彼女が『ソロモンの偽証』の後に出演した、黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)という作品をWoWoWで観ることにした。
藤野は主人公が新たに転居してきた家の隣人、西野家の娘(澪)という役どころ。この「西野」という男がサイコパスの曲者で、実の親子のようにふるまっているが、ほんとは赤の他人。澪の本当の家族と家は、この男によって完全に乗っ取られている。他の家族の運命も悲惨だが、生きているこの娘もなんらかの方法で思考と行動をコントロールされている(このあたりは、まあ、ネタバレの範囲外だと思うので、記してみた)。
娘だけが難を逃れた、6年前のまったく別の一家失踪事件との共通点が、ここにあった。
前川裕の原作は読んでいない。読めばもっと物語の背景がわかり、映画ももっと怖ろしげに楽しめたのかもしれないが、小説の構造を消化し切れていないのか、それとも黒沢監督なりの説明しない美学があるのか、あんまり怖くないんだな。
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