小石川日乗Hatena版

おっさんがよしなしごとを書き散らします

コンプラは天ぷらにして食うのがいい

関西電力の役員らが福井県高浜町の元助役から多額の金品を受領していた問題は、同社のコンプライアンス(法令順守)意識の欠如を露呈した。問題が起きた主な原因は、金品を受け取ったことに加え、その管理を個人に任せていたことだ。同社はその後の社内調査と社内処分の詳細を示しておらず、公的な性格が高い電力会社に求められる姿からはほど遠い。

www.nikkei.com

 電力産業と地域の実力者との関係は、昔からズブズブだった。国策としての電源開発推進のために電力会社からの地域への利益供与が行われ、地域からは発電所建設のための土地提供、稼動容認、ときには「事故の受忍」といった便宜が図られる。電力産業は過疎地における地域振興の要であり、電力産業と地域の利害は、さまざまな矛盾を覆い隠したまま、一致するのである。そうした矛盾が今回の工事資金の環流、一種の「贈賄」事件であらためて露呈した。

 宴会の席に「あいさつに来い」と呼ばれ、金品受領を断ると「俺の顔を潰す気か」と凄まれって、関電が相手にしていたのは、どんな大物ヤクザなのか。菓子箱を開けたら底にピン札がぎっしりみたいな、何十年も前の映画のような話が、2010年代の日本でまだ起こっている。

 ところで、日経記事にもある「コンプライアンスの欠如」だが、関西電力に限らず、日本の大手企業は2000年頃からコンプライアンスに熱心に取り組むようになった。一度、何らかの法令違反を犯した企業ほど、それに熱を入れる。それは一種のブームのようでもあった。当時はまだ「コンプライアンス」という言葉は耳慣れず、それを聞くとわざと「えっ、テンプラアイスって何?」などと揶揄したものだ。

 関西電力もまた、「CSR行動原則」なるものの一つに「コンプライアンスの徹底」を掲げる。「前例にとらわれず、自ら考え行動する自律的なコンプライアンス推進」がコンプライアンス推進の基本方針の一つなのだそうだ。CSRに対する全従業員アンケートでも、「日ごろコンプライアンスを意識して行動しているか」という問いに社員の95.8%が「意識している」と答えている。

www.kepco.co.jp

 ほんまかよ、と思う。いや、社員の95.8%は意識しているとしても、残りの役員は意識していなかったのかもしれない。「コンプラ委員会」やら「コンプラ相談室窓口」やら、たいそうな組織体制を組み、たいそうな理念を掲げるものの、「コンプラの徹底」ができていなかったのだから、この先、どうしたらいいんだろう。そんな条文、もはや天ぷらかキンピラにでもして食うしかないではないか。いずれにせよ、こうした事件が発覚すると、企業が謳うたいそうなご説が白々しく見えてくる、というか、笑えてしまうのは、悲しいことではある。

 

How dare you!

https://img.huffingtonpost.com/asset/5d89724124000057007b5774.jpeg?ops=scalefit_630_noupscale

 スウェーデンの高校生環境活動家グレタ・トゥンベリの国連演説から。

あなたたちは空っぽの言葉で、私の夢そして子供時代を奪いました。それでも私はまだ恵まれている方です。

多くの人たちが苦しんでいます。多くの人たちが死んでいます。全ての生態系が破壊されています。私たちは大量絶滅の始まりにいます。

それなのにあなたたちが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!(How dare you! )

グレタ・トゥーンベリさん、国連で怒りのスピーチ。「あなたたちの裏切りに気づき始めています」(スピーチ全文) | ハフポスト

 動画を見るとほんとに怒っている。日本のネットに棲息する保守のシニシストのなかには、「学校でストライキするぐらいなら、ちゃんと勉強しろよ」などと呟く人もいるが、連中はデモやストライキというものがほんとに嫌いなんだろうな。そういう人に限って、北京の圧政と闘う香港のデモは支持したりしているんで、お笑いだ。

 しかしグレタの言葉は本質を突いている。シニシストやら持続的経済成長支持者(SDGs好きの国連関係者らも含め)らがつかの間の惰眠を貪っている間にも、地球環境は刻々と悪化している。経済発展と環境問題が両立するということ自体がもはや幻想なのだ。

 ところで、グレタが演説で使った How dare you! という言葉。「よくもそんなことを!」と訳したメディアもあるが、英語ではかなり強い罵り言葉なんだろう。この場合は、How dare you say such a thing. という言い方もできる。一つ勉強になった。

 一方で日本の新・環境大臣は同じく国連の会議で「気候変動のような大きな問題への取り組みは、楽しく、かっこよく、そしてセクシーでもあるべきだ」と語った。

 セクシーな環境への取り組みって、都心のオフィス街で浴衣を着て、打ち水することだろうか。対立軸のある問題を、まあままそこはよしなにそこんとこよろしくと、文字通り水に流すのが日本の政治環境。本人は面白いこと言ったつもりなんだろうけれど、言葉は限りなく浮ついている。

 両演説が比較されることで、にやけたセクシー大臣のアホさぶりがいっそう際だってしまった。小泉はTPOを読み違えたというしかない。

ヘイトは遺伝する

 最近は色々面倒なので、TwitterやFacebookはあまり使わないのだが、久しぶりに自分のアカウントを覗いたら、互いにフォローしている知人の中に、この間の日韓経済・政治対立における韓国の対応をめぐり、憤懣やるかたない様子でこんなツイートを吐き散らす御仁がいた。

子供の頃、祖母に「朝鮮人は野犬みたいなものだから食いつかれたり吠えかかられないように側へ寄らんのが一番や」と言われていて、婆ちゃんいつの話だよしょうがねえなあ、と思ったものだが、半世紀近く経って祖母の言うことが全く正しい事を認識した。

「○○人は××だから、▲▲する」という、対象民族をひとくくりにして裁断する思考スタイルは昔からある。たいていの場合、「▲▲」には「つき合いを避ける」「シカトする」ときには「殴る」「蹴る」という、なんらかの感情的にネガティブな行動、時には権限行使や暴力を仄めかす動詞がつくものだ。昔はこうしたワンパターン思考を「民族差別主義」と呼んだものだ。最近は、カタカナ語を使って「ヘイト・スピーチ」というようだが……。

 この投稿者は現在、40代後半かせいぜい50歳前後だから、その祖母といえば、当然戦中・戦前派。日本国内に植民地から就労目的でやってきた朝鮮人がいて、しかも日本人集落の側に居住しており、ときには「朝鮮人部落」を形成し、貧しい生活を余儀なくされていたかもしれない(彼らがなぜ貧しかったのかについては、ここでは割愛するが)。もしかしてその中には強制的に徴用されてきた人々またはその子孫が含まれていたかもしれない。

 「朝鮮人は野犬みたいなもの」という言葉の明らかなヘイト体質は、この「婆ちゃん」の実体験に根ざすものだろう。後にも触れるように、私の父親(大正10年生まれ)もまた、私が子供のころ幼い兄弟たちが家の中で喧嘩していると、よく「朝鮮人みたいな喧嘩をして」と兄弟を諫めたものだ。子供の頃はそう言われてもピンと来なかったのだが、父には朝鮮人が激しく感情的に言い募る様子を実見した経験があったのかしれない。その言葉のトーンには、「朝鮮人は野犬」と同様の明らかな差別的ニュアンスがあった。

 しかし投稿者の祖母や私の父に体現されていた、朝鮮人を見下した眼差しは、必ずしも彼らの個人的な民族差別思想がそのまま現れたものとはいえない。彼らの朝鮮人差別意識は、当時の日本帝国の自国領土内外の他民族に対する政策を屈折して反映したものにすぎない。国家の思想を、人々が、社会が、意識的にか無意識的にか、内面化してしまうことはよくある。

 もちろん、たとえ植民地主義と他民族への差別が日常的に当たり前の時代においても、個人の体験には幅があり、他民族に対する視線が、必ずしも差別的とはならないケースも十分ありうる。

 例えば、2014年に亡くなった小説家、渡辺淳一が、北海道で過ごした子供時代を回想した2002年のエッセイにはこんな描写がある。

札幌の小学校に通っていたわたしは、それら親戚のところへ、ときどき遊びに行ったが、そこで何人かの朝鮮人を見ている。

彼等はいうまでもなく戦時中、日本の権力によって強制連行された人たちである。その数はどれくらいになるのか。一説によると、二百万とも四百万ともいわれているが、かなりの朝鮮人が日本全土に強制的に連行されてきたことは、まぎれもない事実である。

彼等は一様に、真冬でもボロボロの服を着て、痩せて目だけ光っていた。そんな虜囚のような群れが、暗く危険な炭鉱の坑道に送り込まれるのを見たことがある。

さらに新聞店をやっていた親戚の広い庭の下が崖になり、その川沿いに朝鮮人飯場が並んでいた。そこでは朝鮮人たちを労働にかりたてるため、ご飯も立ったまま食べさせて、働きの悪い奴は日本人の棒頭に叩かれて泣いていたと、飯場を覗き見てきた少年がいっていた。

故渡辺淳一と朝鮮人強制連行 | 泥憲和全集——「行動する思想」の記録

 渡辺は事実を述べるだけで、それ以上の感想をここでは控えているが、少なくとも「朝鮮人は野犬のようだ」という侮蔑的な感想は表明していない。むしろこの文章には、彼らの境遇に対する少年らしい好奇心あるいは同情心がかいまみられるのだ。

 私の父も母も、生まれは九州の炭田地帯にそう遠くはない所だ。戦争の末期に女学校を出て尋常小学校の代用教員をしていた母は、後に私たち兄弟にこんなことを話したことがある。

「学級には朝鮮人の子供たちが何人もいた。中には優秀な子もいて、学級の中で成績が一番という子もいたけれど、けっして級長にはなれなかった。担任が任命しようとしても、それは学校では許されなかった」

 そこには、「内鮮一体」というイデオロギーのウラで、その民族性ゆえに構造的に差別される植民地出身者たちの姿があった。私はその母の言葉をよく覚えていて、その後、日本の植民地政策や、日朝・日韓の関係史を勉強する時、いつもその言葉を思い出したものだ。おそらく母には「朝鮮人の子供にも平等に接したかった」という思いがあったのだろう。少なくとも、そうした差別の実態が戦前の日本にあったことを、子供たちに伝えたかったのだと思う。その態度は、「朝鮮人の喧嘩」という差別的トーンのある比喩を、無自覚に使う父とは明らかに異なるものだった。

 このように、自分が体験していない時代のことでも、その時代の経験者の言葉一つで新しい視点が開けることがある。歴史が語り伝えられるというのはこのことだ。同様に、先代、先々代の差別意識が、そのまま家族の中で温存され、無批判に子孫らに伝播するということもありうる。冒頭のツイートはその例証かもしれない。

 ヘイトは、時には遺伝するのである。

「がっかり」

 人が重篤な病気を告白したときに、「本当にがっかりした」という言葉を投げるかけるのは、どうなんだろうね。「ショックだ」「残念だ」という言葉はありだとしても、「がっかり」というのは日本語としてあり得ない。「メダル候補が一人減ってしまって、がっかり」という文脈の中でしか使えないような言葉だからだ。そうした意識で発言したのだとすれば、選手を単なるメダルの駒としてしか捉えていないと批判されてもやむをえない。ともあれ、ほんとに日本の大臣は日本語が使えない。

 そんなところに2019/02/13 15:45の共同電。

桜田義孝五輪担当相は衆院予算委員会で、五輪の根本原則を定めた五輪憲章について「話には聞いているが、自分では読んでいない」と述べた。

https://mainichi.jp/articles/20190213/k00/00m/010/129000c

 これこそ「がっかり」というか「がっくり」だね。

 担当大臣の言葉尻を捉えて政争の具にするのはいかがかなものかとも思っていたが、桜田は論外だわ。即刻、辞めてもらわねば。過去には「放射能、ウツしちゃう」の戯れ言ひとつでクビになった大臣もいたわけだから。

沖縄・那覇

 沖縄に行くのは亡くなったMさんたちとのグループ旅行以来だろうか。5〜6年前のことかと思っていたら、2006年の秋のことだからすでに13年近く経っている。あの時は那覇の「浮島タウンズ」という、マンションを改装した、バックパッカー向けの安宿を拠点に、今帰仁村まで行ったのだった。ちなみにこの宿は今は「国際タウンズイン」と名前を変えている。

 結局、今回も那覇の街は国際通りを中心にブラブラするだけだったが、ちょっと足を伸ばしたのは「壺屋やちむん通り」。ここには過去の沖縄旅行では行ってないはず。那覇市立壺屋焼物博物館を見学のあと、数十の店が軒を並べる陶器店巡りをした。壺屋焼き風の茶碗(これは国際通りのショップで購入)、ちょっとアフリカンテイストの作家物のぐい飲み(にも使える)を購入。若い観光客には伝統的な柄よりも、モダンなデザインが好まれるようだ。工房の見学などもできるようだが、今回は断念。

 深い瑠璃色が美しいカラカラ(酒器、鹿児島でいうジョカ)に魅入られたのだが、1万5,000円もするので諦めた。もっと安いものもあったのだが、良いモノを見てしまうと……。ただ、安物でいいから一つ買っておけばよかったと、家に戻ってきてから思うのだった。f:id:taa-chan:20190131231754j:plainf:id:taa-chan:20190131232027j:plain  ちょうど1/29のNHKの「世界街歩き」で那覇を特集していた。この放送の後だったら、もう少し戦略的な那覇散歩ができたものを。

 国際通りに溢れる観光客の多くが中国・台湾・韓国系で、街を歩いていてもほとんど日本語が聞こえないことにびっくり。中国の旅行客は大型クルーズ船で那覇港に入り、グループで大挙してショッピングや食事をして、また船に戻っていくんだとか。

 しかし、沖縄はもともと中国南部や台湾などの文化的影響が強いところ。気候風土も含めて自分たちの街と似ている異国の街を訪れて何が楽しいんだろうとは思うが、東南アジア風味に日米文化をまじえたミックスカルチャーが彼らにはエキゾチックに映るのか、はたまたサロンパスが大量に安く買えさえすればどこでもいいのか。

 29日の那覇の夜の出色はやはり南島酒房 黒うさぎに尽きるだろう。話し好きの店主の個性、美味い泡盛、そしてこれまで食べたのは何だったんだと思えるぐらいの絶品「紅豚のゴーヤチャンプルー」。たぶん豚のラードが違うのだろう。ちなみに紅豚とはこういうものらしい。 f:id:taa-chan:20190131232234j:plain

横浜中華街・蘭州牛肉拉麺の鴨肉

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 横浜中華街。ちょっと路地を入ったところに、「蘭州牛肉拉麺」の看板。神保町に同じような看板を掲げる店があり、興味はあるのだが、いつもたいそうな行列で入ったことがない。横浜中華街にある店は神保町とは系列が異なるようだが、でも、そんなに古い店ではないと思う。ともあれ、蘭州ラーメンなるものが、どんなものかと思って入ってみた。

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 そもそも「蘭州」とはどこのことか。狭義には蘭州市のことで、中華人民共和国甘粛省の省都。上海から約1,000km、西安よりもさらに内陸に入った町だ。「漢族に次いで回族が多く、他にもドンシャン族、ユグル族、サラール族など白い帽子を被ったイスラム系住民が多い」(Wikipedia)。なにやら、シルクロード的文化混淆な匂いが漂ってくる。

 その蘭州ラーメンだが、基本的には「牛肉のスープに、手打ちで伸ばして茹でた麺を入れた料理」(Wikipedia)と定義される。香菜、ラー油なども要素の一つらしいが、この横浜の店では辛みづけはテーブルにある調味料を自分で調節して行うようで、出されたままのラーメンには辛みはほとんどなく、むしろ牛肉スープの甘い香りが特徴的だった。店の奥で調理人が麵を手で延ばしている。モチモチとした食感の美味しい麵である。

 上記Wikipediaの「蘭州拉麺」の項には「中国政府の一帯一路構想の後押しで積極的に海外にも輸出されている」という興味深い記述があった。どおりで最近、日本でも目立つのか。この小さな店も、最近テレビで紹介されたとかで、それなりに賑わっていた。日本人観光客もいるにはいたが、店の人と中国語で会話する馴染み風の一人客が、ささっとラーメンをすすって出て行くあたりに、地元感が漂う。中華街は路地裏にこそ、味わいがある。

 で、ラーメンの写真は一般的なので割愛。食べログhttps://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140105/14069195/あたりにたくさん紹介されているし。

 同時に注文した「香港風鴨肉」というメニューがむしろそれ以上に美味しかった。蘭州なのに香港もあるのが、いかにも中華街ではある。「鴨」とはあるが、マガモかアイガモかはたまたアヒルかはわからない。しかし、骨付きの肉を表面を香ばしく焼き、ピーナッツ入りのスープで甘く、かつ歯ごたえを残したまま煮た(蒸した?)料理は絶品だった。

 

今日の朝ご飯

f:id:taa-chan:20181204193331j:plain れんこんと鶏肉の煮物/京都大原のしば漬け/レタスとトマトのヨーグルトサラダ/豆腐とワカメの味噌汁/京都丹波産の黒豆ご飯/煮卵/デザートに富有柿

 ちなみに、英辞郎で調べたら、「作り置き」は cook-ahead recipes と言うらしい。これに対して、作り置きではない料理を、made-to-order というとあるが、これはレストランやファストフード店の話だろう。きょうの朝ご飯は、サラダと味噌汁以外はほぼ、cook-ahead recipes といえる。

ほぼ完璧な朝ご飯

ほぼ8カ月ぶりぐらいに、ブログを更新。エディタの使い方をすっかり忘れている。 きょうはリハビリを兼ねて、食べ物ネタ。先週のいつだったけかな、朝ご飯のメニュー。

  • 海苔でまいた卵焼き
  • ひじきの煮物
  • ベーコンと蕪の葉の炒め物
  • ブロッコリー・トマトのツナサラダ
  • 鶏むね肉と蕪の揚げづけ
  • プレーンヨーグルト・オリーブ油かけ
  • ちくわと蕪の味噌汁
  • 白ご飯

作り置きが多いんだけれど。

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いろいろ作っちゃった

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海苔をまいた卵焼き

銃規制を求めるアメリカの高校生たち

 この2月、フロリダ州の高校で起きた銃乱射事件をきっかけに、全米の高校生たちが主体となった、銃規制強化を求める運動が広がりを見せている。

 3月24日に、ワシントンで開かれた「私たちの命のための行進」で演説に立った高校生、エマ・ゴンザレスの、4分半の沈黙を含む演説は世界中で大きな共感を呼んでいる。

youtu.be

 同じ集会でエマと同じ高校の、キャメロン・キャスキーはこう演説した。

「私たちに黙って座っていろ、自分の順番が来るまで待っていろと言った指導者の皆さん、私たちを疑いの目で見たり、どうせ何もできないと冷めた目で見たみなさん、革命にようこそ。国民の意見を代弁できないなら出て行ってください」

www.newsweekjapan.jp

 私も高校生のころ、このように、こんな言葉を使って、話していたかもしれない。今では記憶の森のどこか遠くのことだけれど。

 ちなみに、この高校の名は、1998年に亡くなったアメリカのジャーナリスト、フェミニスト、環境保護主義者であるマージョリー・ストーンマン・ダグラスにゆかりがあるのだという。彼女は南フロリダの自然の保存と修復のために闘う「絶え間ない報告者であり恐れを知らない活動家」だったといわれる(Wikipedia)。

   訴えるテーマこそ違え、2018年のキャメロン・キャスキーも、エマ・ゴンザレスも、マージョリーの名に恥じない勇敢な孫たちである。

 なかでも、バイセクシュアルという自らのセクシュアリティを背景に、颯爽としたスキンヘッドと毅然とした沈黙が、世界にどう伝わるかを彼女があらかじめ知っていたのだとすれば、よい意味でエマ・ゴンザレスは、2010年代のアメリカに出現した、最も優れたパフォーマーであり、アクティビティストだと言わなければならない。

「ヨーグルトは身体に良い」はウソかマコトか

diamond.jp  記事のなかで、東大病院の循環器専門医・稲島司氏はこう指摘する。

稲島 そもそもヨーグルトが効果的なら、ヨーグルトの売上が増えるとともにアレルギー疾患が減っていくはずじゃないですか?この2枚の表を見てください。実際には、ヨーグルトの販売数が増えても、疾患は減ってないし、むしろ一部は増えているんです。

 私はアレルギー体質ではないので、その観点からヨーグルトを摂取しているわけではないが、腸内環境うんたらというのは漠然と信じている。しかし、体にいいと言われる食品には、そのエビデンスを確認しようとすると、それがなかったり、いい加減だったりするものが少なくない。「摂取しても害ではないが、効果を示すエビデンスはない」というやつだ。

 この分だと、「ヨーグルトは肉を柔らかくする」というのもホントかなと疑わしくなる。ヨーグルトサラダチキンとか、よく作るんだけどね。

 稲島医師は、体に良いと思って食べていても、精製された糖分の摂りすぎになったら、逆効果だと指摘している。甘味料や香料無添加で、ちゃんと発酵臭がすることが肝心だ、と。

久しぶりのワタミ

 財務省、文科省、そしてワタミまで……暖かくなってきたんで、バカどもが涌いて出てくるな。政治ネタが尽きないやんけ。

実は、国会の議論を聞いておりますと、何か働くことが悪いことであるような、そんな議論に聞こえてきます。お話を聞いていますと、できれば週休7日が人間にとって幸せなのかと、そのように聞こえてきます。私はもちろん過労死は絶対にいけませんが、働くということは決して悪いことではなく、それぞれについて生きがいであり、自己実現であり、人は働くことでたくさんの『ありがとう』を集め、そして成長していく。そんな大事なものだと思っております。ましてや人しか資源のないこの国であります。それが国をあげて働くな、働くなということでは、これからますます増える高齢者の方々も守ることができないと、そのようにも感じております。公述人お二人の働くということについてのお考えをお聞かせ願いたいと思います

過労死遺族に暴言、謝罪…ブラック経営者・渡邉美樹を働き方改革公聴会の質問者にした自民党の異常|LITERA/リテラ http://lite-ra.com/2018/03/post-3878.html

 ワタミさんの議論を聞いておりますと、できれば週休ゼロ、24時間365日働くことが人間の幸せなのかと、そのように聞こえてきます。

茶番は今日まで

f:id:taa-chan:20180316122308j:plain(東京新聞 2018/03/16朝刊より)

 野党不在の国会審議、安倍マンセーの自民党議員や閣僚・官僚らが、全ての責任を佐川前国税長官に押しつけ、問題の矮小化を図ろうとしている。

 つい1カ月前まで、「国税局の審議官等々やって“極めて有能な役人” だったという意識は私にはあります。したがいまして、今、この佐川というのはこの問題に関して、いわゆる虚偽答弁をしたとかいうわけでもありませんし、私どもとしては“極めて適切な人材”だと思っております」と擁護していた麻生財務大臣は一転して、「佐川の、主として佐川ですけど、佐川の答弁が誤解を受けないようにするため」と三度も呼び捨てを連呼して、佐川氏をばっさりと切り捨てた。

 まだ国税長官に在任中であれば、財務省の役人ということで呼び捨てもありだとは思うが、今は辞任して民間の人。それを呼び捨てにするのはいかがなものか。麻生という男はいつも言葉の端々に配慮のなさ、傲慢さ、人品の怪しさがにじみ出る。こういう性格は、おそらく彼の育ちから来るもの。もはや治癒不可能だろう。

 とはいうものの、こういう馬鹿馬鹿しいシーンを私たちはもう何度も、何年も見てきた。そろそろ終わりにしたいものだ。

 国会の茶番劇も今日までにしなくてはいけない。来週、野党が審議に復帰した後、佐川氏のさらに上の責任をどこまで追及できるかを、私は注目したい。

 「モリカケ問題などたいした問題ではない。もう終わったこと。国会ではもっと議論すべき大切な問題が他にある」などと、昨年段階でほざいていた識者らは、今頃何を考えているのだろうか。仄聞するに、いまなお反省もなく、ひたすら問題の矮小化や火消しに奔走している人もいるようだが、哀れなことではある。

 ちなみに同日付の東京新聞朝刊の「本音のコラム」では、元外務省主席分析官の佐藤優氏が、現在公開されている文書のなかで、誰が作成し誰に配布したかを記載する「決済用紙」が含まれていないことに疑義を呈している。

「今回、財務省が書き換えを認めた文書は、財務本省の相当高いレベルまで配布されていたはずだ。財務省が本当に隠したいのはこの事実ではないかと筆者は見ている」と。

「首相や麻生氏が知らないうちに、官僚が改ざんした」? そんなわけないやろ。

 野党5党が欠席した14日の参院予算委員会で、自民党の西田昌司氏は財務省を手厳しく批判した。西田氏は首相と親しいことで知られる。この日の自民、公明両党は追及の姿勢を演出する一方で、「首相や麻生氏が知らないうちに、官僚が改ざんした」という政府側のストーリーを後押しする姿勢に終始した。

 麻生氏は改ざんについて「(財務省の)そんたくではない」と重ねて否定。西田氏は「念のため聞くが、書き換えを指示したことはもちろんないでしょうね」と念押ししてみせ、「むちゃくちゃになった官僚システムを立て直すのが、安倍内閣の仕事だ」と逆に首相らを持ち上げた。

背信・森友文書:来週にも証人喚問 やむなく「佐川カード」 政府「官僚の責任」強調 毎日新聞2018年3月15日 東京朝刊

 こういうのを典型的な茶番というんやろね。西田議員は国会でいつもこんな茶坊主のようなことしかできない。

 ネット上の自称保守主義者らも、おおかたこのすり替えの論理で難局を乗り切ろうとしている。なかには苦し紛れに「財務省解体!」なる珍妙なスローガンをアジる輩も出てきた。財務省解体って、そのトップにいる麻生の首をまずはハネるってことじゃないのか。

「首相や麻生氏が知らないうちに、官僚が改ざんした」というストーリーは、今後、産経や読売あるいはテレビのワイドショーなどでも繰り返し強調されることになるだろう。しかし、それが声高に叫ばれればされるほど、人々の疑念は増大していく。

 そもそも、国有地売却の取引は「正常だった」と佐川は国会で証言し、それを安倍や麻生は諒としたのではないか。ところが実際は、背景に「特例的な」事情があった。その経緯を示す文書は「廃棄された」はずなのに、後から後から発掘されてくる。

 土地取引自体が異常だった。その異常性を隠し続ける必要があって、決裁文書は改竄された。だからこそ、なぜこんな特殊な経緯で国有地は売却されなければならなかったのかが、あらためて問われているのだ。

 たしかに近畿財務局の職員は、籠池らの脅しに近い交渉に屈したのかもしれない。しかし、それは籠池が怖かったからではなく、背景に鵺のように鎮座する安倍と昭恵の存在が怖かったからである。そもそも、交渉が終盤を迎えていた2016年3月時点で、昭恵は小学校の名誉校長だったのだから、それも当然である。

 麻生がいうように忖度などという生やさしいものではない。昭恵とその夫・晋三の存在は明らかに財務局にとってプレッシャーであり、それは本省にも及んでいたのだ。

 それでも、近畿財務局の担当者は必死でこの取引の経緯を詳細に書き残した。しかしそれから1年以上も経って、おそらく目を真っ赤に泣き腫らしながら、自らその経緯を削除せざるをえなかった。心ある公務員であればあるほど、そんなプライドをずたずたにされるような苦行、まさに「常識が壊される」事態に耐えられるはずもない。

 日本の官僚システムを「むちゃくちゃに」したのは、一体誰なのか。答えはすでに明らかである。

 *参考になる記事

www.mag2.com

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