小石川日乗Hatena版

おっさんがよしなしごとを書き散らします

読書メモ:田野大輔『ファシズムの教室』(大月書店)

 この本で詳細に触れられている、田野大輔・甲南大教授の授業実践については、その概要を本人が「私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由」という寄稿にまとめている。

 以下、同書で紹介されたナチスのエピソードと、それに対する私の感想をメモ。

■アイドルとしてのヒットラー

ヒトラーの人気の理由は、ほかの角度からも説明することができる。ナチス時代、ヒトラーの民衆的な人気を反映して、彼を取り上げたたくさんの写真集が発売されていた。タバコを買うともらえる写真を貼り付けて完成させるアルバムが発売され、その発行部数が30万部以上もあったのである。ヒトラーは独身で家庭をもっていなかったが、オーストリアに近い山岳地域のオーバーザルツベルクに山荘をもっていて、そこで何か月も休暇を過ごすのをならわしとしていた。その休暇中のヒトラーに焦点を当てた写真集が何種類もあり、それぞれ数十万部発行されていた。当時のドイツでは、どの家庭にも一冊はあったのではないかと思われるほどの発行部数である。そういう写真集で強調されているのは、ベルリンで公務に就いているときの厳しく険しい顔をしたヒトラーではなく、休暇をゆったりと過ごしている彼の打ち解けた人間的な表情である。ある写真のキャプションには、「総統も笑うことがある」と書かれている。「われわれが知っているヒトラーは厳しい顔をした総統だが、私生活ではこんなに温和な表情を見せることもある」というギャップが、ここでは強調されている。

田野 大輔『ファシズムの教室』Kindle 版 No.343-345

 コロナ禍の渦中、自宅でくつろぐ姿を演出して、「ステイ・ホーム」という新たな道徳規範を浸透させようとした、どこかの首相のプロパカンダ手法と、これはよく似ている。 ヒトラーはこのプロパガンダによって、「ほかの多くの政治家や党員たちとは違って、庶民と変わらない善良で誠実な心をもった指導者」(田野)というイメージを流布することができたという。

 さて、現代のどこかの首相はそれに成功しただろうか。ヒトラーの真似っこが中途半端なあまり、自爆したというのが、後世の歴史が示す答えだろう。

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同書より

(ナチスの党大会に関して、当初、一般大衆の関心はさほど高くはなかったのだが)こうした状況のもとで一定の参加者を確保するため、大会当局は様々な便宜をはかることになった。その一つが、金銭的な援助である。ドイツ各地の職場から選ばれた参加者には、ナチ党の圧力で数日の有給休暇が与えられたため、汽車賃と食事つき宿泊費が実質無料となった。参加者からすれば、これはニュルンベルク観光を援助してくれるというおいしい話だった。だがさらに重要なのは、大会への客寄せを目的として、様々な娯楽の催しが提供されたことである。「民衆の祭典」と銘打って、会場周辺で各種のアトラクションが提供されたが、そのなかにはサッカーの試合から大道芸、フォークダンス、映画上映、ビアガーデン、打ち上げ花火まで、ありとあらゆる催し物が含まれていた。無料で参加できるこの楽しいお祭りこそ、多くの参加者の求めるものだった。

田野 大輔『ファシズムの教室』Kindle 版No.896-903

これはまるで「桜を見る会」だな。

東京五輪、2024年に順延説

 東京オリンピックは中途半端な延期より、中止した方がいいんじゃないのとは思うけれど、まあ、やりたい人がいればやればいい。妨害はいたしません。

 IOCやJOCは予定通りと強弁しつづけながら、コロッと延期に舵を切り替えるらしいけれど、「中止」という言葉は依然タブーのようだ。

 なんでタブーかといったら、中止では投資を全く回収できなくなるから。だったらこの際、2020年は中止。でも、2024年に東京でやることを確約。以下、開催地は順送りにするという奇策はいかがか。

 8年ぶりの大会のほうが熟度も増して、盛り上がるかも。ただ、8年の間に人々がオリンピックのことなんてすっかり忘れてしまうということもありうるけれど。

 当然、選手の顔ぶれは変わるが、別にそれでスポーツが死ぬわけじゃない。オリンピック開催時期と選手のピークは常にずれるもの。運が悪かったと諦めるしかない。

 晴海の選手村はマンションにして、2024年に向けて他のところに新たに作ったらいい。不動産屋にとっては需要の先延ばしができる。国立競技場など他のインフラは、別に五輪のためだけに作っているわけじゃないのだから、これは粛々と使っていけばいい。

 もちろん、2024年にパンデミックが再発しないという保証は誰にもできない。ただ、パンデミックが常態化したら、そもそもあらゆる世界イベントが開けなくなるわけで。

 たとえ1~2年延期するにしても、あまり人に迷惑をかけるなよとは言いたい。少なくとも税金をこれ以上投入するのはダメでしょう。そうでなくても、最初のプレゼン段階よりずっと肥大化しているんだから。

 忘れやすい気質の日本人。いい機会だから、2013年の「IOC総会における安倍総理プレゼンテーション」なるポエムを再掲しておこう。感染症のことなんて、この時点ではまったく頭の中になかったんだろうな。

IOC総会における安倍総理プレゼンテーション

日時(アルゼンチン・ブエノスアイレス)

2013年9月7日(土)10:30~11:40(日本時間22:30~23:40)

 委員長、ならびにIOC委員の皆様、東京で、この今も、そして2020年を迎えても 世界有数の安全な都市、東京で大会を開けますならば、それは私どもにとってこの うえない名誉となるでありましょう。

 フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御 されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、 今後とも、及ぼすことはありません。

 さらに申し上げます。ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアム から、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が、確証さ れたものとなります。

東京五輪は中止するしかないワケ

3月17日未明、G7首脳による異例の緊急電話会議を終えカメラの前に立った安倍首相は、7月24日開幕予定の東京オリンピック・パラリンピックの開催について「人類が新型コロナウイルスに打ち勝つ証として、完全な形で実現することで主要7か国の支持を得た」と語った。

安倍首相の「完全な形で五輪開催」発言は“歌舞伎”?広がる東京オリ・パラ延期観測の舞台裏 - FNN.jpプライムオンライン

 逆に言えば、コロナに勝てない状態が続いたら開催できない、「完全な形で実現」できなければ開催する意味がないということだろう。

 そこで急きょ延期論が浮上してきた。

 1年ほど延期すればコロナ禍は収束しているかもしれない。しかし、今度は他のメジャースポーツ大会の日程との調整が難しくなる。

東京五輪、延期への流れ止まらず 難題は日程調整  :日本経済新聞が延期の時期ごとのリスクを紹介している。

それによれば、

・2020年内開催

「代表に決まっているアスリートへの影響や各会場の再確保などによる負担は発生するが、比較的軽く抑えられる」 「だが、秋以降はフットボールのNFLやバスケットボールのNBAなど北米のプロスポーツのシーズンが始まり、巨額の放映権料を五輪に支払う米NBCは難色を示すという」 「NBAや欧州のサッカーリーグのスター選手の出場は絶望的になる。ゴルフやテニスもツアーがあり、時期によっては開幕が遅れた日本のプロ野球も影響を受ける」

・1年後の同時期開催

「21年夏は米オレゴン州で陸上、日本の福岡で水泳の世界選手権が予定されている。どちらも五輪の花形競技」

・2年後の同時期開催

「22年夏ならスケジュールに比較的余裕がある。ただ、2月に北京で冬季五輪、冬にはカタールでサッカーのワールドカップ(W杯)が開催される。夏季五輪が同じ年にくれば、国際サッカー連盟や北京五輪、24年パリ五輪のステークホルダーたちも大会の価値が下がると抵抗するだろう」

 思い切って、陸上、バスケ、水泳、サッカー、野球、テニス、ゴルフなどいくつかの種目を外しての開催はどうか。サッカー以降はW杯やチャンピオンズリーグ、グランドスラムなど五輪以上に盛り上がる大会があるので、諦めがつく。ゴルフなんてもともと五輪競技じゃないし。

 しかし、陸上、バスケ、水泳は外せないだろう。特に五輪の大スポンサーであるアメリカのテレビ局にとって、これらを外したら五輪中継の意味がない。

 いずれにしても大会種目を縮小したうえでの開催は、安倍のいう「完全な形」にはならない。つまり完全を目指すなら、逆に延期はありえない。結局、安倍がまたまたバカな見栄をきったおかげで、東京五輪は中止しか選択肢はなくなってしまったということだ。

コンプラは天ぷらにして食うのがいい

関西電力の役員らが福井県高浜町の元助役から多額の金品を受領していた問題は、同社のコンプライアンス(法令順守)意識の欠如を露呈した。問題が起きた主な原因は、金品を受け取ったことに加え、その管理を個人に任せていたことだ。同社はその後の社内調査と社内処分の詳細を示しておらず、公的な性格が高い電力会社に求められる姿からはほど遠い。

www.nikkei.com

 電力産業と地域の実力者との関係は、昔からズブズブだった。国策としての電源開発推進のために電力会社からの地域への利益供与が行われ、地域からは発電所建設のための土地提供、稼動容認、ときには「事故の受忍」といった便宜が図られる。電力産業は過疎地における地域振興の要であり、電力産業と地域の利害は、さまざまな矛盾を覆い隠したまま、一致するのである。そうした矛盾が今回の工事資金の環流、一種の「贈賄」事件であらためて露呈した。

 宴会の席に「あいさつに来い」と呼ばれ、金品受領を断ると「俺の顔を潰す気か」と凄まれって、関電が相手にしていたのは、どんな大物ヤクザなのか。菓子箱を開けたら底にピン札がぎっしりみたいな、何十年も前の映画のような話が、2010年代の日本でまだ起こっている。

 ところで、日経記事にもある「コンプライアンスの欠如」だが、関西電力に限らず、日本の大手企業は2000年頃からコンプライアンスに熱心に取り組むようになった。一度、何らかの法令違反を犯した企業ほど、それに熱を入れる。それは一種のブームのようでもあった。当時はまだ「コンプライアンス」という言葉は耳慣れず、それを聞くとわざと「えっ、テンプラアイスって何?」などと揶揄したものだ。

 関西電力もまた、「CSR行動原則」なるものの一つに「コンプライアンスの徹底」を掲げる。「前例にとらわれず、自ら考え行動する自律的なコンプライアンス推進」がコンプライアンス推進の基本方針の一つなのだそうだ。CSRに対する全従業員アンケートでも、「日ごろコンプライアンスを意識して行動しているか」という問いに社員の95.8%が「意識している」と答えている。

www.kepco.co.jp

 ほんまかよ、と思う。いや、社員の95.8%は意識しているとしても、残りの役員は意識していなかったのかもしれない。「コンプラ委員会」やら「コンプラ相談室窓口」やら、たいそうな組織体制を組み、たいそうな理念を掲げるものの、「コンプラの徹底」ができていなかったのだから、この先、どうしたらいいんだろう。そんな条文、もはや天ぷらかキンピラにでもして食うしかないではないか。いずれにせよ、こうした事件が発覚すると、企業が謳うたいそうなご説が白々しく見えてくる、というか、笑えてしまうのは、悲しいことではある。

 

How dare you!

https://img.huffingtonpost.com/asset/5d89724124000057007b5774.jpeg?ops=scalefit_630_noupscale

 スウェーデンの高校生環境活動家グレタ・トゥンベリの国連演説から。

あなたたちは空っぽの言葉で、私の夢そして子供時代を奪いました。それでも私はまだ恵まれている方です。

多くの人たちが苦しんでいます。多くの人たちが死んでいます。全ての生態系が破壊されています。私たちは大量絶滅の始まりにいます。

それなのにあなたたちが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。恥ずかしくないんでしょうか!(How dare you! )

グレタ・トゥーンベリさん、国連で怒りのスピーチ。「あなたたちの裏切りに気づき始めています」(スピーチ全文) | ハフポスト

 動画を見るとほんとに怒っている。日本のネットに棲息する保守のシニシストのなかには、「学校でストライキするぐらいなら、ちゃんと勉強しろよ」などと呟く人もいるが、連中はデモやストライキというものがほんとに嫌いなんだろうな。そういう人に限って、北京の圧政と闘う香港のデモは支持したりしているんで、お笑いだ。

 しかしグレタの言葉は本質を突いている。シニシストやら持続的経済成長支持者(SDGs好きの国連関係者らも含め)らがつかの間の惰眠を貪っている間にも、地球環境は刻々と悪化している。経済発展と環境問題が両立するということ自体がもはや幻想なのだ。

 ところで、グレタが演説で使った How dare you! という言葉。「よくもそんなことを!」と訳したメディアもあるが、英語ではかなり強い罵り言葉なんだろう。この場合は、How dare you say such a thing. という言い方もできる。一つ勉強になった。

 一方で日本の新・環境大臣は同じく国連の会議で「気候変動のような大きな問題への取り組みは、楽しく、かっこよく、そしてセクシーでもあるべきだ」と語った。

 セクシーな環境への取り組みって、都心のオフィス街で浴衣を着て、打ち水することだろうか。対立軸のある問題を、まあままそこはよしなにそこんとこよろしくと、文字通り水に流すのが日本の政治環境。本人は面白いこと言ったつもりなんだろうけれど、言葉は限りなく浮ついている。

 両演説が比較されることで、にやけたセクシー大臣のアホさぶりがいっそう際だってしまった。小泉はTPOを読み違えたというしかない。

ヘイトは遺伝する

 最近は色々面倒なので、TwitterやFacebookはあまり使わないのだが、久しぶりに自分のアカウントを覗いたら、互いにフォローしている知人の中に、この間の日韓経済・政治対立における韓国の対応をめぐり、憤懣やるかたない様子でこんなツイートを吐き散らす御仁がいた。

子供の頃、祖母に「朝鮮人は野犬みたいなものだから食いつかれたり吠えかかられないように側へ寄らんのが一番や」と言われていて、婆ちゃんいつの話だよしょうがねえなあ、と思ったものだが、半世紀近く経って祖母の言うことが全く正しい事を認識した。

「○○人は××だから、▲▲する」という、対象民族をひとくくりにして裁断する思考スタイルは昔からある。たいていの場合、「▲▲」には「つき合いを避ける」「シカトする」ときには「殴る」「蹴る」という、なんらかの感情的にネガティブな行動、時には権限行使や暴力を仄めかす動詞がつくものだ。昔はこうしたワンパターン思考を「民族差別主義」と呼んだものだ。最近は、カタカナ語を使って「ヘイト・スピーチ」というようだが……。

 この投稿者は現在、40代後半かせいぜい50歳前後だから、その祖母といえば、当然戦中・戦前派。日本国内に植民地から就労目的でやってきた朝鮮人がいて、しかも日本人集落の側に居住しており、ときには「朝鮮人部落」を形成し、貧しい生活を余儀なくされていたかもしれない(彼らがなぜ貧しかったのかについては、ここでは割愛するが)。もしかしてその中には強制的に徴用されてきた人々またはその子孫が含まれていたかもしれない。

 「朝鮮人は野犬みたいなもの」という言葉の明らかなヘイト体質は、この「婆ちゃん」の実体験に根ざすものだろう。後にも触れるように、私の父親(大正10年生まれ)もまた、私が子供のころ幼い兄弟たちが家の中で喧嘩していると、よく「朝鮮人みたいな喧嘩をして」と兄弟を諫めたものだ。子供の頃はそう言われてもピンと来なかったのだが、父には朝鮮人が激しく感情的に言い募る様子を実見した経験があったのかしれない。その言葉のトーンには、「朝鮮人は野犬」と同様の明らかな差別的ニュアンスがあった。

 しかし投稿者の祖母や私の父に体現されていた、朝鮮人を見下した眼差しは、必ずしも彼らの個人的な民族差別思想がそのまま現れたものとはいえない。彼らの朝鮮人差別意識は、当時の日本帝国の自国領土内外の他民族に対する政策を屈折して反映したものにすぎない。国家の思想を、人々が、社会が、意識的にか無意識的にか、内面化してしまうことはよくある。

 もちろん、たとえ植民地主義と他民族への差別が日常的に当たり前の時代においても、個人の体験には幅があり、他民族に対する視線が、必ずしも差別的とはならないケースも十分ありうる。

 例えば、2014年に亡くなった小説家、渡辺淳一が、北海道で過ごした子供時代を回想した2002年のエッセイにはこんな描写がある。

札幌の小学校に通っていたわたしは、それら親戚のところへ、ときどき遊びに行ったが、そこで何人かの朝鮮人を見ている。

彼等はいうまでもなく戦時中、日本の権力によって強制連行された人たちである。その数はどれくらいになるのか。一説によると、二百万とも四百万ともいわれているが、かなりの朝鮮人が日本全土に強制的に連行されてきたことは、まぎれもない事実である。

彼等は一様に、真冬でもボロボロの服を着て、痩せて目だけ光っていた。そんな虜囚のような群れが、暗く危険な炭鉱の坑道に送り込まれるのを見たことがある。

さらに新聞店をやっていた親戚の広い庭の下が崖になり、その川沿いに朝鮮人飯場が並んでいた。そこでは朝鮮人たちを労働にかりたてるため、ご飯も立ったまま食べさせて、働きの悪い奴は日本人の棒頭に叩かれて泣いていたと、飯場を覗き見てきた少年がいっていた。

故渡辺淳一と朝鮮人強制連行 | 泥憲和全集——「行動する思想」の記録

 渡辺は事実を述べるだけで、それ以上の感想をここでは控えているが、少なくとも「朝鮮人は野犬のようだ」という侮蔑的な感想は表明していない。むしろこの文章には、彼らの境遇に対する少年らしい好奇心あるいは同情心がかいまみられるのだ。

 私の父も母も、生まれは九州の炭田地帯にそう遠くはない所だ。戦争の末期に女学校を出て尋常小学校の代用教員をしていた母は、後に私たち兄弟にこんなことを話したことがある。

「学級には朝鮮人の子供たちが何人もいた。中には優秀な子もいて、学級の中で成績が一番という子もいたけれど、けっして級長にはなれなかった。担任が任命しようとしても、それは学校では許されなかった」

 そこには、「内鮮一体」というイデオロギーのウラで、その民族性ゆえに構造的に差別される植民地出身者たちの姿があった。私はその母の言葉をよく覚えていて、その後、日本の植民地政策や、日朝・日韓の関係史を勉強する時、いつもその言葉を思い出したものだ。おそらく母には「朝鮮人の子供にも平等に接したかった」という思いがあったのだろう。少なくとも、そうした差別の実態が戦前の日本にあったことを、子供たちに伝えたかったのだと思う。その態度は、「朝鮮人の喧嘩」という差別的トーンのある比喩を、無自覚に使う父とは明らかに異なるものだった。

 このように、自分が体験していない時代のことでも、その時代の経験者の言葉一つで新しい視点が開けることがある。歴史が語り伝えられるというのはこのことだ。同様に、先代、先々代の差別意識が、そのまま家族の中で温存され、無批判に子孫らに伝播するということもありうる。冒頭のツイートはその例証かもしれない。

 ヘイトは、時には遺伝するのである。

「がっかり」

 人が重篤な病気を告白したときに、「本当にがっかりした」という言葉を投げるかけるのは、どうなんだろうね。「ショックだ」「残念だ」という言葉はありだとしても、「がっかり」というのは日本語としてあり得ない。「メダル候補が一人減ってしまって、がっかり」という文脈の中でしか使えないような言葉だからだ。そうした意識で発言したのだとすれば、選手を単なるメダルの駒としてしか捉えていないと批判されてもやむをえない。ともあれ、ほんとに日本の大臣は日本語が使えない。

 そんなところに2019/02/13 15:45の共同電。

桜田義孝五輪担当相は衆院予算委員会で、五輪の根本原則を定めた五輪憲章について「話には聞いているが、自分では読んでいない」と述べた。

https://mainichi.jp/articles/20190213/k00/00m/010/129000c

 これこそ「がっかり」というか「がっくり」だね。

 担当大臣の言葉尻を捉えて政争の具にするのはいかがかなものかとも思っていたが、桜田は論外だわ。即刻、辞めてもらわねば。過去には「放射能、ウツしちゃう」の戯れ言ひとつでクビになった大臣もいたわけだから。

沖縄・那覇

 沖縄に行くのは亡くなったMさんたちとのグループ旅行以来だろうか。5〜6年前のことかと思っていたら、2006年の秋のことだからすでに13年近く経っている。あの時は那覇の「浮島タウンズ」という、マンションを改装した、バックパッカー向けの安宿を拠点に、今帰仁村まで行ったのだった。ちなみにこの宿は今は「国際タウンズイン」と名前を変えている。

 結局、今回も那覇の街は国際通りを中心にブラブラするだけだったが、ちょっと足を伸ばしたのは「壺屋やちむん通り」。ここには過去の沖縄旅行では行ってないはず。那覇市立壺屋焼物博物館を見学のあと、数十の店が軒を並べる陶器店巡りをした。壺屋焼き風の茶碗(これは国際通りのショップで購入)、ちょっとアフリカンテイストの作家物のぐい飲み(にも使える)を購入。若い観光客には伝統的な柄よりも、モダンなデザインが好まれるようだ。工房の見学などもできるようだが、今回は断念。

 深い瑠璃色が美しいカラカラ(酒器、鹿児島でいうジョカ)に魅入られたのだが、1万5,000円もするので諦めた。もっと安いものもあったのだが、良いモノを見てしまうと……。ただ、安物でいいから一つ買っておけばよかったと、家に戻ってきてから思うのだった。f:id:taa-chan:20190131231754j:plainf:id:taa-chan:20190131232027j:plain  ちょうど1/29のNHKの「世界街歩き」で那覇を特集していた。この放送の後だったら、もう少し戦略的な那覇散歩ができたものを。

 国際通りに溢れる観光客の多くが中国・台湾・韓国系で、街を歩いていてもほとんど日本語が聞こえないことにびっくり。中国の旅行客は大型クルーズ船で那覇港に入り、グループで大挙してショッピングや食事をして、また船に戻っていくんだとか。

 しかし、沖縄はもともと中国南部や台湾などの文化的影響が強いところ。気候風土も含めて自分たちの街と似ている異国の街を訪れて何が楽しいんだろうとは思うが、東南アジア風味に日米文化をまじえたミックスカルチャーが彼らにはエキゾチックに映るのか、はたまたサロンパスが大量に安く買えさえすればどこでもいいのか。

 29日の那覇の夜の出色はやはり南島酒房 黒うさぎに尽きるだろう。話し好きの店主の個性、美味い泡盛、そしてこれまで食べたのは何だったんだと思えるぐらいの絶品「紅豚のゴーヤチャンプルー」。たぶん豚のラードが違うのだろう。ちなみに紅豚とはこういうものらしい。 f:id:taa-chan:20190131232234j:plain

横浜中華街・蘭州牛肉拉麺の鴨肉

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 横浜中華街。ちょっと路地を入ったところに、「蘭州牛肉拉麺」の看板。神保町に同じような看板を掲げる店があり、興味はあるのだが、いつもたいそうな行列で入ったことがない。横浜中華街にある店は神保町とは系列が異なるようだが、でも、そんなに古い店ではないと思う。ともあれ、蘭州ラーメンなるものが、どんなものかと思って入ってみた。

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 そもそも「蘭州」とはどこのことか。狭義には蘭州市のことで、中華人民共和国甘粛省の省都。上海から約1,000km、西安よりもさらに内陸に入った町だ。「漢族に次いで回族が多く、他にもドンシャン族、ユグル族、サラール族など白い帽子を被ったイスラム系住民が多い」(Wikipedia)。なにやら、シルクロード的文化混淆な匂いが漂ってくる。

 その蘭州ラーメンだが、基本的には「牛肉のスープに、手打ちで伸ばして茹でた麺を入れた料理」(Wikipedia)と定義される。香菜、ラー油なども要素の一つらしいが、この横浜の店では辛みづけはテーブルにある調味料を自分で調節して行うようで、出されたままのラーメンには辛みはほとんどなく、むしろ牛肉スープの甘い香りが特徴的だった。店の奥で調理人が麵を手で延ばしている。モチモチとした食感の美味しい麵である。

 上記Wikipediaの「蘭州拉麺」の項には「中国政府の一帯一路構想の後押しで積極的に海外にも輸出されている」という興味深い記述があった。どおりで最近、日本でも目立つのか。この小さな店も、最近テレビで紹介されたとかで、それなりに賑わっていた。日本人観光客もいるにはいたが、店の人と中国語で会話する馴染み風の一人客が、ささっとラーメンをすすって出て行くあたりに、地元感が漂う。中華街は路地裏にこそ、味わいがある。

 で、ラーメンの写真は一般的なので割愛。食べログhttps://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140105/14069195/あたりにたくさん紹介されているし。

 同時に注文した「香港風鴨肉」というメニューがむしろそれ以上に美味しかった。蘭州なのに香港もあるのが、いかにも中華街ではある。「鴨」とはあるが、マガモかアイガモかはたまたアヒルかはわからない。しかし、骨付きの肉を表面を香ばしく焼き、ピーナッツ入りのスープで甘く、かつ歯ごたえを残したまま煮た(蒸した?)料理は絶品だった。

 

今日の朝ご飯

f:id:taa-chan:20181204193331j:plain れんこんと鶏肉の煮物/京都大原のしば漬け/レタスとトマトのヨーグルトサラダ/豆腐とワカメの味噌汁/京都丹波産の黒豆ご飯/煮卵/デザートに富有柿

 ちなみに、英辞郎で調べたら、「作り置き」は cook-ahead recipes と言うらしい。これに対して、作り置きではない料理を、made-to-order というとあるが、これはレストランやファストフード店の話だろう。きょうの朝ご飯は、サラダと味噌汁以外はほぼ、cook-ahead recipes といえる。

ほぼ完璧な朝ご飯

ほぼ8カ月ぶりぐらいに、ブログを更新。エディタの使い方をすっかり忘れている。 きょうはリハビリを兼ねて、食べ物ネタ。先週のいつだったけかな、朝ご飯のメニュー。

  • 海苔でまいた卵焼き
  • ひじきの煮物
  • ベーコンと蕪の葉の炒め物
  • ブロッコリー・トマトのツナサラダ
  • 鶏むね肉と蕪の揚げづけ
  • プレーンヨーグルト・オリーブ油かけ
  • ちくわと蕪の味噌汁
  • 白ご飯

作り置きが多いんだけれど。

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いろいろ作っちゃった

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海苔をまいた卵焼き

銃規制を求めるアメリカの高校生たち

 この2月、フロリダ州の高校で起きた銃乱射事件をきっかけに、全米の高校生たちが主体となった、銃規制強化を求める運動が広がりを見せている。

 3月24日に、ワシントンで開かれた「私たちの命のための行進」で演説に立った高校生、エマ・ゴンザレスの、4分半の沈黙を含む演説は世界中で大きな共感を呼んでいる。

youtu.be

 同じ集会でエマと同じ高校の、キャメロン・キャスキーはこう演説した。

「私たちに黙って座っていろ、自分の順番が来るまで待っていろと言った指導者の皆さん、私たちを疑いの目で見たり、どうせ何もできないと冷めた目で見たみなさん、革命にようこそ。国民の意見を代弁できないなら出て行ってください」

www.newsweekjapan.jp

 私も高校生のころ、このように、こんな言葉を使って、話していたかもしれない。今では記憶の森のどこか遠くのことだけれど。

 ちなみに、この高校の名は、1998年に亡くなったアメリカのジャーナリスト、フェミニスト、環境保護主義者であるマージョリー・ストーンマン・ダグラスにゆかりがあるのだという。彼女は南フロリダの自然の保存と修復のために闘う「絶え間ない報告者であり恐れを知らない活動家」だったといわれる(Wikipedia)。

   訴えるテーマこそ違え、2018年のキャメロン・キャスキーも、エマ・ゴンザレスも、マージョリーの名に恥じない勇敢な孫たちである。

 なかでも、バイセクシュアルという自らのセクシュアリティを背景に、颯爽としたスキンヘッドと毅然とした沈黙が、世界にどう伝わるかを彼女があらかじめ知っていたのだとすれば、よい意味でエマ・ゴンザレスは、2010年代のアメリカに出現した、最も優れたパフォーマーであり、アクティビティストだと言わなければならない。

「ヨーグルトは身体に良い」はウソかマコトか

diamond.jp  記事のなかで、東大病院の循環器専門医・稲島司氏はこう指摘する。

稲島 そもそもヨーグルトが効果的なら、ヨーグルトの売上が増えるとともにアレルギー疾患が減っていくはずじゃないですか?この2枚の表を見てください。実際には、ヨーグルトの販売数が増えても、疾患は減ってないし、むしろ一部は増えているんです。

 私はアレルギー体質ではないので、その観点からヨーグルトを摂取しているわけではないが、腸内環境うんたらというのは漠然と信じている。しかし、体にいいと言われる食品には、そのエビデンスを確認しようとすると、それがなかったり、いい加減だったりするものが少なくない。「摂取しても害ではないが、効果を示すエビデンスはない」というやつだ。

 この分だと、「ヨーグルトは肉を柔らかくする」というのもホントかなと疑わしくなる。ヨーグルトサラダチキンとか、よく作るんだけどね。

 稲島医師は、体に良いと思って食べていても、精製された糖分の摂りすぎになったら、逆効果だと指摘している。甘味料や香料無添加で、ちゃんと発酵臭がすることが肝心だ、と。

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