小石川日乗Hatena版

おっさんがよしなしごとを書き散らします

モスキート・コースト

 19世紀前半、中米の新興国ポヤイス国への投資を煽った希代の詐欺師グレガー・マクレガーの話が、『世界をまどわせた地図』(日経ナショナル・ジオグラフィックス)という本に登場する。

 マクレガーはスコットランドの名家の出身で、戦争の英雄でもあった。現在のホンジュラスあたりに「ポヤイス国」という国があり、マクレガーはそこの「領主」という触れ込みだった。その肩書と巧みな弁舌に人々は魅了された。なんでもポヤイスでは、わずか11ポンドで100エーカーもの肥沃な土地が手に入る。川には砂金がごろごろ埋まっている。カネとコネ次第で政府高官への就任も可能だという。

http://nkbp.jp/2mxVZY9

 そのころ、欧州は不景気の中にあり、それを脱するために、投資家の間では中南米への投資が人気があった。ただ、まだ中南米は欧州から遠く、世界地図には欠陥があった。マクレガーが示すポヤイスの地図は不鮮明だったが、そういう国があってもおかしくはない程度には精巧にできていた。

 土地の譲渡委任状やポヤイス国の紙幣まで見せられると、ヨーロッパの銀行家から職人まで多くの人が、マクレガーの話を信じ込んだ。実際、入植のために船が仕立てられ、270人の移住者がポヤイス国があるあたりに渡った。もちろん、そこに待っていたのは、未開の密林とマラリアの発生源になりそうな沼地だけだった。

 マクレガーは人々を騙すために「モスキート・コースト国のジョージ・フレデリック・アウグストゥス王から授けられたという、まばゆいばかりのメダルと勲章」をぶらさげていたという。いつの時代にも人は金ぴかの勲章に弱い。

   と、そこまで読んで、驚いた。「モスキート・コーストだって? 」 そうか、そういうことなのか。

 アメリカの作家、ポール・セローはマクレガーとポヤイス国の詐欺話を知っていて、それで1982年に発表した小説のタイトルを「The Mosquito Coast」としたのだ。

 管理された資本主義を憎む発明家の男が、家族をつれて中米の密林に渡り、そこに理想郷を建設しようとして、挫折する話。

http://bit.ly/2mzsy86

 実は私は小説は読んでいない。ただ、1986年のピーター・ウィアー(Peter Weir)監督による映画化作品『モスキート・コースト』は見ている。夢想家の父親をハリソン・フォード、冷静な長男を、その4年後には亡くなってしまうリバー・フェニックスが演じた。たしか冒頭に父親が日本の工業製品を「ジャップ!」と叫んでぶち壊すシーンが登場する。日米貿易摩擦の頃の話なのだ。ようやく父の夢想から解放された一家が、筏に乗って静かに川を流れていく(ような)ラストシーンも覚えている。

 ウィアー作品はどれもいいものだ。75年の『ピクニックatハンギング・ロック』でその名を知った。第一次世界大戦のガリポリの戦いを描いた『誓い』はメル・ギブソン主演ということもあって、日本でもヒットした。『いまを生きる』『グリーン・カード』『トゥルーマン・ショー』もいい。『刑事ジョン・ブック/目撃者』は知られざるアーミッシュの生活を描き、ハリソン・フォードとケリー・マクギリスの名演もあって、私の人生映画100選にも選ばれている。2010年の『ウェイバック』以来は撮っていないのか、最近は名前を聞かないが。

「モスキート・コースト」という地名はもしかしたら実在するのかもしれないが、「モスキート・コースト国」や「ポヤイス国」という国家は、マクレガーの頃もセローやウィアーの頃も、いや世界史上にこれまで実在したことは一度もない。

 それらは見果てぬ夢と尽きぬ欲望を、そしてしたたかなペテンと裏切りを象徴する言葉なのだ。有象無象の輩がそれこそ無数のボウフラのように涌き、ヤブ蚊の大群で空は霞がかっている。偽史国家に惑わされる人類の社会的不幸というべきものの、それは言い換えともいえる。

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