日付の変わった午前2時、8月15日の神保町の居酒屋で、突然この歌が聞こえてきたのだから仕方がない。「スラバヤ通りの妹へ」:松任谷由実。
1981年のミニアルバム「水の中のAsiaへ」のA面に収められていた。アルバムは全体には80年代の海外旅行ブームを背景に、エスニックな旅情を歌ったもの。おそらくユーミン自身のアジア旅行体験が反映されているのだろう。それまでユーミンは、ブルジョワなお嬢さんが惚れた腫れたを歌っているんだけれど、その楽曲がそれまでの有象無象の歌謡曲やフォークソングをすっきり「乗り越えちゃっている」ので、もうこれはすごい人、というのが私の認識ではあった。
ところがこの歌を聴いて私はさらに驚くのである。歌詞はこうなっている。
妹みたいね15のあなた髪を束ねて前を歩いてく
かごの鳩や不思議な果物に
埋もれそうな朝の市場
やせた年寄りは責めるように私と日本に目をそむける
でも、”RASA…(RASA…)RASA SAYANG EH”
そのつぎを教えてよ
少しの英語だけがあなたとの
架け橋なら淋しいから
”RASA SAYANG EH”
ラッサ、ラッサ、サーヤンゲーという(当時の私には意味不明の)インドネシア語のフレーズを取り込みながら、旅愁を醸し出す旋律が印象に残る名曲だ。だが、歌詞にはさらりと聞き過ごせない、小さな棘のような言葉が含まれている。「やせた年寄りは責めるように/私と日本に目をそむける」という部分である。なぜここでいきなり「日本」が登場するのか。
旅人ユーミンの視線は、意識の程度はともあれ、アジア・太平洋戦争における日本とインドネシアの関係を捉えている。日本軍はインドネシアをオランダ植民地から解放したと、後の歴史修正主義は言い募るのだが、実際には日本軍政には光と影があった。影の部分をあげれば、防衛力強化のために多数の労働者が強制的に動員された。日本は「植民地解放」の名分で、インドネシアを戦争遂行のための橋頭堡として利用しようとした。その過程で発生したオランダ人やインドネシア人女性への戦時性暴力(慰安婦強制)の問題も忘れることはできない。
少なくともユーミンは、必ずしも日本の占領の記憶をよく思っていない街の人々の「責める」ような視線を、1981年の時点で感じ取っていた。その旅人としての鋭敏な感性には驚く。
むろん、それだけなら旅の感傷の一コマかもしれない。しかしユーミンはこう続ける。「そのつぎを教えてよ/少しの英語だけがあなたとの/架け橋なら淋しいから」。現地語を知ることでもっと「妹」と話したい。アジアをもっと知りたいと。
戦後の日本人はアジアにどう関わったのか。資源収奪と市場活用というビジネスの論理、観光資源としてだけのツーリズムの視線、結局は自国を守るためだけの安全保障という軍事・政治のフレームワーク……それだけなのか。もう一つ別の視点があるべきだし、ユーミンが教えてほしい「そのつぎ」とはそういうことなのではないか。
あらためて首相の空疎な言葉を聞くハメになった、70年目の「終戦記念日」。そんなものに耳を傾けるより、私は「スラバヤ通りの妹」に寄り添う、ユーミンの言葉を聞いていたいと思うのだ。