第2次世界大戦中、ナチス親衛隊により、女性・子供を含む600人以上の村民が教会に閉じこめられ火を放たれるなどして、ほぼ全滅したフランスの小さな村「オラドゥール」。その戦後70年を東京新聞8/10夕刊が報じている。戦後、独仏和解が進むなかでも、この村だけはそれを拒み続けてきた。しかし前村長らの努力で、2013年、ドイツ大統領のヨアヒム・ガウクがこの村を訪問、オランド仏大統領と共に、数少ない生き残りの村人と握手を交わした。
虐殺の歴史を記憶するため、破壊された村はそのまま廃墟として保存されている。そのことは何かで読んだか見たかした記憶があるのだが、和解に至るプロセスの詳細については初めて知ることができた。(虐殺の詳細については、Wikipediaを参照)
こうしたナチスによる住民皆殺しは当時のヨーロッパには他にもいくつかあり、それらを、史実に忠実にというよりは象徴的に語ったり、ある種のエピソードとして挿入する映画はいくつもある。
例えば、ロベール・アンリコ監督、ロミー・シュナイダー助演の1975年の映画『追想』がそうだ。映写会の機会を復讐の場に選ぶというそのストーリーは、タランティーノ監督の『イングロリアル・バスターズ』(2009年)でよりダイナミックに継承された。
しかし、これらの映画では無慈悲な虐殺に対する正当な復讐は描かれるものの、復讐者のその後は描かれない。失われた家族や故郷への追想のかたわら、新たな殺人者になった主人公らの心理的葛藤は描かれない。絶対的な悪と絶対的な善がスパイラルに交叉しながら、最終的には映画的カタルシスを導くという、いわば戦争映画の古典的ともいえる手法に終始している。
同じナチスによる虐殺をエピソードに含みながらも、謝罪と和解への歩みだしを描いたのは、スティーブン・ダルドリー監督『愛を読む人』(ベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』の映画化。2008年)だ。
終戦後何年か経って戦犯として法廷に引きずりだされた、かつての少年の年上の愛人は、空爆を受けた強制収容所を職務に忠実なあまり解錠せず、結果として囚人の大量焼死をもたらした罪で訴追されていた。
そのことを主人公=かつての少年は知らなかった。そして最初は、同じドイツ人としてその罪をどうしても赦すことができない。しかし、やがて彼女が刑務所で自死すると、その遺志を継ごうと動き始める。女囚が貯めたわずかばかりのお金を被害者の遺族に渡すために渡米するが、遺族とは完璧には和解できない。かつての愛人の罪に同伴する主人公の謝罪は、中途半端なまま中空に浮いている。
だが、その葛藤こそが、虐殺の責任を問う意識が、和解へと導かれる一つの過程なのだ。
戦争犯罪と和解。それには半世紀いやそれ以上の時がかかる。和解のプロセスは尋常な努力ではないだろう。しかし、それを放棄したり忘却したとき、それはあらたな憎悪として蘇ってしまうだろう。