小石川日乗Hatena版

おっさんがよしなしごとを書き散らします

映画『やさしい本泥棒』『アデル、ブルーは熱い色』

『やさしい本泥棒』

ソフィー・ネリッセ:Marie-Sophie Nélisse

 ナチス支配下で公開焚書が行われた街の広場。9歳の少女リーゼルは焼け残った本をこっそりと取り出し、里親になった新しい父の下で読み書きを学ぶ。

 リーゼルの実の両親は共産党員らしいが、リーゼルはまだ「コミュニスト」という言葉の意味を知らない。父はすでになく、憔悴しきった母と逃亡中の列車で、小さな弟は息を絶える。その後母も逮捕されたに違いない。母とはぐれたひとりぼっちのリーゼルを養女に迎えたのは、看板職人のハンス夫婦だった。

 

 このころ体制への「反逆者」とされた共産党社民党の子どもたちが、実際にはどのように処遇されたのか。ユダヤ人であれば間違いなく一族郎党ともに強制収容所に送られたろう。政治犯の子どもは、親と切り離されて、映画のように「養子」扱いで生き延びる道がのこされていたのかもしれない。

 

 当時はインテリが多かった共産党員であるのに、娘に読み書きを教えなかったというのは不思議なことであるが、おそらく長い逃亡や地下生活にあって学校に行かせることができなかったという設定なのだろうか。

 

 劇中、仕事にあぶれた養父ハンス(ジェフリー・ラッシュ)に「党員になればたくさん仕事を回すのに」とささやく隣人が登場する。しかしハンスは口にこそ出さないが、ヒトラーのことをよく思ってはいない。リーゼルをコミュニストの娘と知って養女にしたのもそうだし、第一次世界大戦の戦場で銃弾に身を挺して自分をすくってくれたユダヤ人の知人がいて、その息子を地下室に匿うという行動に出るのも、そのあらわれだ。積極的抵抗者とはいえないにしても、ナチスに対する市井の抵抗者の一人であったのはたしかだろう。

 

 養母に扮するのはエミリー・ワトソン。リーゼル役のソフィー・ネリッセは、2人の大俳優に囲まれながら、のびのびと演技している。大きな無垢の瞳が印象的な子役だ。

『ぼくたちのムッシュ・ラザール』のときはまだ表情にあどけなさがあって、言われるまで同じ子だとは思えなかった。

 

 原作はマークース・ズーザックの『本泥棒:The Book Thief』。それによれば、舞台はミュンヘンの街だという。狂言回しのように、ロジャー・アラムのナレーション(死神役)がときおり入るのは、なくもながではあるが、おそらく原作の構成を踏襲しただけなのかもしれない。

 ネリッセの次回作は児童文学『ガラスの家族』の映画化だという情報がある。

 

 もう1本、『アデル、ブルーは熱い色』は2013年のパルムドール作品。ようやく見ることができた。

 同性愛であれ異性愛であれ、性愛の根源には相手を食べてしまいたくなるほど所有したいという願望があるはずだ。ただその感情は永遠に続くことはない。いつか変化が訪れる。

 その顚末を、主演のアデル(アデル・エグザルコプロス:Adèle Exarchopoulos)の表情の執拗なまでのクローズアップで撮りきった。まさにアップに堪える演技者ではある。

 高校生たちが街頭のデモに出るシーンや、女子学生がサルトルの哲学を語るシーンなどもある。けっして70年代ではなく、2000年代の話。これらは原作者あるいは監督アブデラティフ・ケシシュのモチーフにあった背景なのだろう。監督のチュニジア生まれという来歴が、少数者=LGBTへの理解を生んでいるのかもしれない。同監督の『クスクス粒の秘密』も私の録画ライブラリには入っているので、近いうちに見てみたい。

 それにしてもこの恋人たちは、非対称だ。才能豊かだが癇癪持ちのエマ(レア・セドゥ:Léa Seydoux)と、エマほどに才能はないものの、けなげで一筋で、泣き虫のアデル。誰だって後者に感情移入してしまう。同性愛についての社会的偏見を、一身で受け止めるのもアデルのほうだ。

 失恋後、アデルがまるでブルーブラックのインクを垂らしたような海に漂うシーン(美しい!)、青いドレスでエマの個展を訪ねるも、失意のまま帰るラストシーン。エマはすでに最初に出会ったときのような青い髪をしていない。青は情熱の色であると同時に、喪失の色でもある。

 

 私の審美眼的には、エマの新しい恋人役(最初のパーティーシーンで妊娠していたのはこの人だったはず)でちょっと出ていたモナ・ヴァルラヴェン:Mona Walravensという女優さんのほうが素敵だと思った。

 雰囲気が少し、ロザムンド・パイク:Rosamund Pike(下)に似ているんだよな。








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