小石川日乗Hatena版

おっさんがよしなしごとを書き散らします

銭湯の話

 この前、菊坂途中にある「菊水湯」が廃業になるというので、最期の日に入りに行った。銭湯には過剰な思い入れはないが、無くなるとなると行きたくなるのは人の常。

 そういえば、むかし角川春樹事務所から出ていた「ランティエ」という爺臭い月刊誌に、「とうきょう放浪記」と題して、5回ほど連載のコラムを書いたことがあった。その初回が「銭湯」。もう9年も前のことだから、そこに書いた自分の文章の転載も許されるだろう。「菊水湯」にも触れている。「月の湯」は健在だろうか。

 ちなみにその連載は、編集長というのがどうも保守的な人のようで、「皇居」の回にロラン・バルトの『表象の帝国』を引用して西欧的な視点で皇居の立ち位置に触れたら、やはり不興を買ったらしく、勝手に原稿に朱を入れられ、そのあげく、連載が中止されたか、ライターが交替したかで、仕事が無くなってしまった。この私が「皇居」のことを、皇国史観で書くとでも思ったか。

 ま、一本のコラムを書くのに、東京中を駆け回っていくつも取材をしなくてはならず、当然、原稿料には見合わない仕事だったので、それはそれでホッとしたのだけれど……。中年のノスタルジーなんぞは、個人の思惟の枠に止めておくべきだ。間違っても「国家」などを紛れ込ませると、ろくなことにはならない。

(以下、2006年4月に書いたコラムの引用)


残照の唐破風をくぐりて風呂に行く

 昭和40年代に2600軒あったのが、今では1000軒を切ろうとしている東京の銭湯。いま入らなければ、先はないかもしれない、貴重な庶民の文化財。散歩の汗を流しに、久しぶりに風呂屋へ寄ろう。

■昭和の香り濃厚なクラシック銭湯

 文京区目白台、住宅街のなかにひっそりとある「月の湯」。切り妻の瓦屋根、正面に唐破風をつけて神社仏閣を想起させる「宮型造り」の建物。木組みのしっかりした高い格子天井に、富士のペンキ絵、壁には「鯉の瀧昇り」のタイル絵と来れば……。ここは銭湯マニアにはよく知られる「東京クラシック銭湯」の一つ。昭和8年の建物が、内装も含めほぼそのままの形で残されている。
 おかみの山田泰江さんが昭和46年に嫁いできたとき、庭の池ではアヒルを飼っていたという。その後は金魚に替わったが、いまはその池も枯れてしまった。7年前にご主人を亡くし、それから一人で切り盛りする。
世知辛い世の中、銭湯でストレス発散すればみんな丸くいくのに…。ずっと続けたいけど、建物もぼろぼろだし、跡を継ぐ商売じゃないしねぇ」
 この人の「番台のおかみ」話は、「月の湯物語」が書けそうなぐらい面白い。近所に和敬塾という学生寮があって、その学生が代々アルバイトで風呂掃除をしにくる。「若いときに風呂掃除みたいな下積み仕事をすれば、それが社会に出てからもきっと役に立つ」というご主人の思いがあってのこと。元来、銭湯は大人にとっては近所づきあいの場であり、子供らにとっては公衆道徳を身につける教育の場でもあったのだと、思いをいたす。
 いまどき風のサウナもなく、テレビやラジオやクーラーさえない。そもそも脱衣を入れるロッカーもなく、ここでは脱いだものはみな竹籠に置いておくのだ。高い天窓から射し込む西日が、昭和の銭湯をセピア色に染めていく。

樋口一葉の街に残る癒しの湯

 今日は「はしご湯」とシャレてみるか。時代をもっと遡り、明治文豪ゆかりの本郷あたり。樋口一葉旧居跡のある菊坂下に一軒、小さな銭湯がある。「菊水湯」は100年の歴史というから、もしや一葉も使ったかもしれぬ。改築や代替わりが何度かあって、そのあたりの記録は残っていないようだが。
 主浴槽は冬は日替わりのハーブ湯、夏は備長炭を沈めて清涼感を醸し出す。隣には高麗人参の香りがする薬草湯。これは身体が癒されそうだ。場所柄、近所の下宿に寄宿する東大の学生がかつてはよく出入りした。最近は、留学や旅の途中の外国人が物珍しそうに暖簾をくぐる。かすかに残る本郷の修学旅行宿からは、先生に引率され生徒たちが「体験入浴」にやって来る。銭湯は今では、「体験」する伝統文化になってしまったのだ。
「最近、キレる子が増えているのは、きっと銭湯が少なくなっちゃったからよね」
 おかみの宮本ひろ子さんと、風呂上がりのコーヒー牛乳を飲みながら、ここでもしばし教育談義。番台のおかみたちの能弁は、丸裸の子どもらが群れはしゃいでいた銭湯の往時を偲ぶ、白鳥の歌のようにも聞こえる。

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